佐伯義勝料理写真スタジオ

LIFE

佐伯義勝の写真家人生

小さい頃からのカメラ小僧

佐伯義勝(さえき・よしかつ)は1927(昭和2)年、東京・日暮里(にっぽり)で生まれた。おじが写真館を経営していたり、いとこが松竹大船のカメラマンだったりしたこともあって、写真は小学生のころから身近な存在だった。

小学生のときはパーレット、イコンタシックスをいじっていたという。「浅草で売られていたトーゴーカメラという製品とのつきあいが最初でした。シャッターを押して1、2、3……6まで数える。写し終えると、カメラ付属の赤い現像液、そして緑の定着液の順に印画紙を浸すと写真ができあがるんです」

中学生になったときは既に戦時中。光画班(今でいう写真部)の班長を務めていた。

終戦間近の頃、中島飛行機への勤労動員の行き帰りに通る古道具屋にライカⅢAが1台置いてあった。佐伯はそれが欲しくて、欲しくて仕方がない。戦争は日々激化し、いざという時のために、家の全財産のお金を母と半分ずつに分けて身に付けていた。

昭和20年8月15日。佐伯は天皇の放送が終わるや否やその店へ駆けつけ、店の主人に交渉し、500円のところを450円で買った。持ち歩いていた金を使って、夢にまで見たライカを手に入れたのである。首からぶら下げ、意気揚々と家に戻ったところ、母親にこっぴどく怒られた。

報道写真家として昭和史に残る写真を撮る

戦後すぐに明治大学の商科に入学した。大学ではカメラクラブに所属し、件のライカでカタログの仕事や、近所の七五三、結婚式に至るまで、さまざまな撮影をアルバイトとしてこなした。

ある日、写真家の木村伊兵衛(きむら・いへい)さんが明治大学に撮影で訪れ、佐伯が学内を案内した。それが縁で大学卒業後は、サン・ニュース・フォトスに入り、木村さん、土門拳(どもん・けん)さんに師事した。当時のサン・ニュースには三木淳(みき・じゅん)さんや田沼武能(たぬま・たけよし)さんなど、錚々たる写真家が在籍していた。

「木村先生のことは、小学生の時分から『アサヒカメラ』で写真を見て、あこがれていました。戦後復刊した同誌の表紙の2号、3号、4号では先生のライト持ちをさせてもらいましたが、嬉しくて、嬉しくて天にも昇る心地でした」

土門拳さんにも弟子としてみとめられた佐伯は1950(昭和25)年頃から建築写真や社会主義リアリズムを基調としたルポ写真に精力を注ぐようになった。基地闘争のルポ写真は昭和27、28年石川県内灘(うちなだ)で起こった米軍射撃場新設反対闘争、1955(昭和30)年から1955年にかけて都下砂川町で起こった砂川(すながわ)基地反対闘争がある。

1954(昭和29)年には、“昭和の女工哀史”と呼ばれた近江絹糸(おうみけんし)ストを撮影。忘れられないのは1959(昭和34)年9月の伊勢湾台風(死者・行方不明5098名)だ。超満員の東海道線で東京・名古屋間を二往復し、この空前の大水害を胸まで水に浸かって撮影した。

「当時、地方には35ミリカメラを持ってルポを撮れる人なんていませんでした。だからこそ、今自分がこれを記録しなかったら誰がやるのかという使命感に燃え、身銭を切って駆けつけたものです」と、佐伯は回想していた。

今も昭和史の写真集などが出版されるときには、佐伯の写真が使われている。

報道写真から料理写真の世界へ

報道写真だけで食べていくのは苦しく、やむなく手がけたのが女性誌の写真撮影である。その舞台が大手の『婦人画報』だった。佐伯は表紙からファッションや手芸、着物、ルポルタージュと頼まれればなんでも撮っていた。

「私が写真を撮り始めた昭和20年代の日本はとても食べ物を楽しめるような状態ではありませんでした。名のある写真家が被写体として食べ物を選ぶなんて、考えられなかった時代ですね」

と佐伯も当初は料理を撮るとは考えてもいなかった。そんな中でも、あえて「前人未到」の料理カメラマンを目指したのには、いくつかのきっかけがあり、カメラマンとしての使命感を深く意識したからだった。

昭和30年頃、まだ日本の食事情が貧しかった時代、女性誌で「世界の家庭料理」という企画があり、佐伯は戦勝国の在日大使館での撮影に臨んだ。目の前にはこれまで見たこともないような、ぜいたくでおいしそうな料理が並び、豊かなにおいが立ち上る。佐伯は夢中でシャッターを押した。

撮影後には大使夫人や一等書記官夫人も一緒になって試食をし、「これも食べてくださいね。一緒にワインもいかが?」と笑顔で声をかけてくれた。ついこの問まで戦争し、いがみ合っていた国の人間同士とは思えない。人はおいしいものを前にすると、こんなにも笑顔になるのか。

料理は文化。おいしいものを食べたい、撮りたい

佐伯は発育盛りを戦中戦後の食糧難の時代に過ごしたため、戦後何年たっても料理そのものに関心がもてなかった。関心はもっぱら質より量。何でもおなかいっぱいに食べられれば満足という食生活だった。

撮影で料理家を訪ねるうちに、愛情のこもった料理のおいしさがじわじわと佐伯を変えていった。ただおなかを満たすだけのものと、料理は違う。

これが文化というものだ。

それが、当時報道写真や芸術写真と違って、誰もなろうとしなかった料理カメラマンの道を進む大きな原点になった。佐伯にとって写しているときの高揚感は、報道写真も料理写真も変わらない。そこが佐伯の原点、意欲の原点、あるいは使命感になったのだろう。

今でこそ料理写真への関心、人気は高い。プロの料理写真家を目指す若者は引きも切らず、料理を撮りたがるカメラマンも多い。しかし佐伯が料理写真を手がけたのは昭和20年代の終わり。料理写真は下に見られ、今日の隆盛など誰一人として予測していなかった時代だ。佐伯が料理写真の分野と一つの時代をつくり上げたのである。

その後、日本の料理写真は目覚ましい発展をとげる。大型ストロボとポラロイドという新兵器が登場し、印刷技術も飛躍的に向上した。女性誌は料理のページを増やし、新雑誌も続々と刊行された。

佐伯の舞台は大きく広がっていった。

たくさんの一流料理家との出会い

佐伯の仕事は潔く、決して妥協しなかった。ポラロイド(当時はまずポラロイドでテスト写真を撮っていた)に料理家がOKを出しても、自分が納得するまでは何度でも撮り続ける。その分のポラロイド代を出版社に負担させたりはしない。後ろがボケた写真は盛り付けがごまかせるからと嫌い、全部にピントを合わせていたのもそんな気持ちの表れだったのかもしれない。

佐伯はあらゆることがきっちりして、それはすごいの一言に尽きるという。その表れのひとつが弟子たちのテキパキとした動きだ。車が着いたとたんに機材をさっと運び出し、撮影の位置を決めていく。一切無駄のない動きはまさに「佐伯軍団」と呼ぶにふさわしかった。お手本にしたかったと称されるほどだったが、佐伯自身はいつもにこやかで、優しい人柄だった。特に女性が弟子入りしたころからは、もっと優しくなったような印象を受けたそうだ。

佐伯は60年にわたり、日本の料理を撮り続けてきた。一緒に仕事をした料理家の数は恐らく日本一だろう。その誰もが佐伯の仕事ぶり、技術の高さ、人柄の温かさに感銘を受け、料理撮影の楽しさを実感したという。「佐伯先生の写真には本当に安心感がありました。私が作った料理以上にきれいに撮ってくださる。『これはどうかな』と思っていた料理も、『へえ、こんなになるんだ』と驚きと感動に変わるんです」(料理家・柳原敏雄さん)

出版社には「社カメ」と呼ばれる社員のカメラマンがいて、その頃は料理も社カメが撮るのが普通だった。が、社カメとは比べ物にならない腕前だった佐伯だけは別格扱い。当時料理カメラマンとして活躍した著名なカメラマンは、佐伯以外には見当たらない。

人生を変えた「辻留」との仕事

昭和30~40年代、女性誌の料理ページで活躍した料理家には飯田深雪さんや江上トミさん、河野貞子さん、柳原敏雄さん、榊淑子さん、土井勝(どい・まさる)さん、辻嘉一(つじ・かいち)さん、熊谷喜八さんなどがいる。佐伯はそのすべての人たちの料理を撮った。

女性誌の料理ページを撮り始めた佐伯に料理の奥深さ、面白さ、おいしさを教えてくれたのがこれらの料理家たちだ。料理写真に本気で取り組むようになったのも料理家たちとの出会いがあってこそ。まさに人生の恩人である。

関西の家庭料理研究の第一人者土井勝さんの撮影は大阪で、土井さんの休日に合わせて行われた。土井さんは日曜日になると決まって釣りに出かけたので、そこで撮ったこともあった。佐伯も土井さんも酒が飲めず、ゆっくりつまみを味わうこともなく、すぐにご飯を食べるのはお互いにラクな関係だったのかもしれない。息子さんの善晴さんとも佐伯は何度も仕事をした。

多くの一流料理家の中でも佐伯に料理の神髄をたたき込み、料理写真へ踏み込む後押しをした人物こそが京懐石の名店『辻留』主人・辻嘉一さんである。料理への強烈な思いは、ときとして現場を縮み上がらせ、迫力に満ちた撮影が続いた。その出会いを佐伯は「運命だった」と述懐する。

昭和29年頃、佐伯は報道写真を撮りながらも、女性誌から写真の依頼があれば受けていた。当時の佐伯にはまだ料理写真に対する特別な思い入れはない。訪ねたのは当時銀座にあった懐石料理『辻留』。父親(留次郎さん)から二代目を継承した嘉一さんは名料理人とうたわれ、裏千家の御用人としても務めていた。

この日の撮影は鮎の塩焼きだった。板場にピリピリと緊張感が張りつめ、辻留さんは鬼のような形相で怒鳴った。「わしが持って行ったらパッと撮れ。ええか、もたもたするな!」

必死になって準備をしていると台所から「行くぞ!」と大声がする。カメラのほうはまだ用意できていないのに、焼き上がった鮎を持って突進してきて、「はよう撮れ! 料理が生きているうちに撮れ!」。さらに「うまい瞬間をカメラにちゃんと食わせろ!」と怒鳴り、佐伯の背中をたたいた。

佐伯はたかが鮎の塩焼きくらいでなぜこんなに大げさにするのか不思議でならなかった。実は焼き魚は焼き上がりからわずか数秒で、ふり塩が脂に溶け、見た目も食感も落ちていく。瞬時に撮らなければ料理は死んでしまうのだ。

この日の撮影は忘れられないものになった。料理写真も報道写真も一瞬の勝負がものを言う。辻留さんの気迫、瞬時を争う撮影は最高の高揚感に包まれたドラマだった。料理家とカメラマンの勝負でもあった。

辻留さんの言葉は佐伯が生涯追い続けるテーマの原点になった。

「うまい瞬間をカメラに食わせるにはどうしたらいいか」

何もかもが手さぐりで始まった。

辻さんは「カメラ目玉」で料理を構成

不思議なことに、どの撮影もどこの出版社の依頼であるかは、辻さんしか知らない。編集部の人間も来ない。佐伯たちにも知らされないが、雑誌や出版社によっての区別なくどの撮影も全力で取り組んだ。しかし撮影が終われば辻さんは破顔一笑、好々爺の風情になって「すまんな、ご苦労ご苦労」となり、佐伯たちも緊張感から解放される。

とはいえ、辻留での撮影は心底くたびれた。撮影中は何かと怒られる。戦場のようだから語気も荒くなる。佐伯自身もその都度全力で取り組み、必死になって撮っていく。

料理の構成をするのはすべて辻さんだ。皆に「どけー!」と言ってカメラのレンズにぴったりと頭をつけ、カメラが料理をどう捉えているかを見る。「カメラ目玉で見ろ」と言って、思惑どおりにいかないと自らカメラの三脚をずらすこともあった。

たしかに辻さんが目の前の皿を右にちょっと振っただけで、美しさは全く違ってくる。これを佐伯は「間」だと言った。辻さんがその場を離れると、そのままシャッターを押せるほど完璧な構成ができあがっていた。

「わしは浮気はせえへんで」と稀代の料理人は、昭和63年に81歳で亡くなるまで佐伯以外には自分の料理を撮らせなかった。

撮ったフィルムは惜しげもなく料理家や編集者に

「写真は掲載されればそれで使命は終わります。だから私はそれを作品として集めて展覧会を開くなんて考えていません」

これだけ長い間、おびただしい数の料理写真を撮っていた佐伯だが、撮ったフィルムはすべて惜しげもなく料理家や編集者に渡していた。そのため写真展はほとんど開かず、写真集も出していない。

佐伯の没後開かれた写真展に際して、佐伯の遺族のところにはフィルムが残されておらず、弟子たちが奔走し出版社や料理家から集めてきた。

佐伯は、自身で写したものはその写真が本来あるべきところにあればいいと考えていた。

過去の仕事よりも次を目指す。これまでにいちばん気に入った仕事は何かと聞かれると、「昨日の仕事」と答えていた。次の日はまた「昨日の仕事」。常に前の仕事を修正しながら向上心を持ってエネルギッシュに仕事に取り組む。それはどんなに年齢を重ねても衰えることはなく、亡くなるその日まで続いた。だからこそ、過去に撮った写真にはこだわらなかった。

隅々までピントを合わせる

佐伯の写真の特徴はすみずみまでピントの合った美しさだ。料理全体はもちろん、複数の献立を一枚に収める場合でも、すべての料理にピントを合わせる。写真は情報を伝えることも大きな役割だと考えるからだ。器も含めて、一つひとつの食材がわかるように撮る。もしどこか1か所だけにピントが合って、ほかがボケていては意味がない。日本画あるいは推敲を重ねた名文同様、ボケてはいけない。

とはいえ、すべてにピントを合わせて撮るためには、1万ワットW/S以上の大型ストロボを立てて、あおりのきく大判カメラを使うため、仕掛けは大掛かりにならざるを得ない。スタジオだけでなく、地方の撮影も同様だ。京都の料亭での撮影では事前に撮影機材を大きなトランク10個に入れて数万円かけて送り、当日もスタッフ全員リュックに機材を背負って運んだ。

注文どおりに撮ることも大切

最近は時代の流れから、小さなストロボやカメラでカジュアルに撮影することが増えてきた。1カ所にピントが合って、後ろがボケるいわゆる「ピンあさ」の料理写真である。

あるとき、外国メーカーから写真の依頼があり、バックをぼかしてくれとの注文があった。そこで、ピンあさに撮ったら、「こういうのがいい」と喜ばれたという。そんなとき、佐伯は決して自分のやり方や考えを押し付けることはしなかった。現場での指示、写真を依頼した人の意向にそって撮ることも大切だと考え、あくまでも謙虚に従った。他人の意見が思わぬ新鮮さに結びつくというプラス面も認め、柔軟に対応していた。いつまでも精神が若々しかったのは、そんな姿勢からきていたのだろう。

おいしいものは美しい

料理写真を撮り続けるうち、一般の人の料理へのイメージが大きく変わってきた。かつて雑誌の料理は「あんな料理を食べてみたい」という、あこがれの対象だった。そこで、撮影用の料理は七分目ぐらいまでしか火を通さず、彩りの美しさ、見た目のよさを強調した。

ところが、豊かな時代になって人々がいろいろな料理を口にするようになると、完全に調理した料理の写真でないと受け入れられなくなった。多少色味が悪くても、そこに本当の味を感じとるように変わってきた。

「『たかが食い物じゃないか』と思う人もいるでしょう。でも、おいしい物はやはり美しいのです」と佐伯は言い、実際においしく作られた料理を、いかにおいしく撮るかに苦心した。「真似のできない構成力に加えて、食べられる料理写真」と評されるゆえんである。

佐伯が日々持ち続けていたのは、ごく日常的な素材や被写体であっても、自分が写せばこんなに変わって素晴らしくなるんだという信念である。全てを集中させて、まだ気に入らない、まだ気に入らないと思いながらやり抜くことだった。「料理なんてこれでいい、と思えばそれでよくなってしまう。簡単に終わっちゃうものなんです」

日本初の本格キッチンスタジオ

「料理のいちばんおいしいところをカメラに食べさせてやりたいと思って、こんなスタジオにしました」

日本で初めての本格的なキッチンスタジオを作ったのが佐伯である。料理の撮影はほとんどの場合料理家のところへ出向く。狭い台所の片隅などで仕事をすることが多い。

が、凝り性の佐伯は何もかも一流の設備と機能を揃えたスタジオを作り上げた。キッチンが主役で、その隣に写真を撮る場所があるスタジオだ。作り立ての料理をすぐに撮り、まさにおいしい瞬間をカメラに食べさせるために設計された。

スタジオは1980(昭和55)年、東京・世田谷区深沢の自宅敷地内に完成した。地下は食器庫で、高さ4mの棚の総延長が約120mもあり、様々な食器、鍋、釜、グラス、かごなど料理の道具などが並んでいる。スタジオと倉庫の広さは90㎡。

調理設備はプロの料理人が普段どおりの仕事ができるほどがっしりしている。火力も業務用と同じで、料理人は納得のゆく仕事ができる仕組みだ。壁にずらりとぶら下がった鍋類はフランスの分厚い銅鍋で、すべてプロ仕様だった。

すべてが機能的に設計されていた

幾多の料理研究家や一流シェフが作った料理写真がこのスタジオから発信され、日本中の雑誌やポスターを華やかに飾ってきた。

スタジオに隣接する部屋が約40㎡の調理・撮影準備室である。屋根はガラス張りで中央が吹き抜けになった二階建てだ。大型の業務用冷凍冷蔵庫、スウェーデン・エレクトロラックス製の大型電気調理台などが置かれ、一流レストランの厨房顔負けの設備である。ここで佐伯の弟子たちが調理や撮影の準備をテキパキとこなす。

この部屋では調理だけでなく、2階から俯瞰(ふかん)で調理のプロセス写真を撮影することができる。2階には料理関係の書籍も揃っていて、編集者たちとの打ち合わせの場としても使えるなど、機能的に設計されていた。

従来の設備も含め、これだけの設備を稼動させるには、とても一般用の電気設備では容量が間に合わず、工業用配電設備が必要になる。クーラーのクーリングタワー、給湯ボイラーなどは、かなりの騒音を撒き散らす。近所迷惑にならないよう、屋上にまとめて設置し、周囲をグラスウールで作ったぶ厚い防音板で囲んだ機械室も新設した。

撮影の用途別に7台の車を持ったことも

おいしい写真をとるために、もうひとつ活躍したのが車である。

「たれ下がったブドウを入れて撮影したいとき、つるを切って東京のスタジオに持ってきたらしなびてしまいます。現地で生きたつるを引っぱり、その下のテーブルに料理を置いて撮るのがベスト。野外の撮影でも後ろからスト口ボを当てるが、2kWの発電機を2台使う。これを積んで現場へ行くには、山の中でも砂浜でも走れる四輪駆動でなくてはダメ」

そう言って、佐伯は日本中あちこちの撮影に車を飛ばした。

もともと佐伯は大の車好きで、かなりの数の車を乗り継ぎ、いちばん多いときには7台も所有していた。ランドクルーザー、冷蔵庫付きのマイクロバス、乗用車、8ナンバーの特殊車両などを用途によって使い分けていたのだ。そして弟子がスタジオを卒業するときには、1台ずつ惜しみなく与えた。

集めに集めた料理小道具10万点

佐伯が食器や鍋など撮影用の小道具を収集していたことはあまりに有名である。「佐伯コレクション」と言う人もいたが、その数やスケール、価値は半端ではなかった。

「必要なものは全部自前で揃えました。本物に肉薄するのが使命でしたから、揃えられるものは揃えようと」

生来の凝り性を発揮して集め始めたのは、昭和30年代後半から。カラー写真の時代に入り、人々の生活に余裕が生まれ、料理への関心が高まってきた頃だ。女性誌は料理ページを増やし、あちこちから仕事が舞い込んでくる。

当時はまだスタイリストや料理コーディネーターなどという職業はなく、料理家が自前の器に盛りつけるのが普通だった。それではどこの写真も似たりよったりになる。飽き足らなくなった佐伯は、自分で食器などを集めるようになった。「料理写裏の器なんてそこらの荒物屋で売ってるのでいいんだ」と言う編集者もいたが、佐伯は本物にこだわり、めげずに撮影現場に持ち込んだ。

とくに鍋には目がなく、目についたものは片っ端から買い込む。以前テレビに出演したときに鍋がいくつあるかと聞かれて、500から600くらいと答えたら「えっ、そんなにあるんですか」と驚かれた。しかし家に戻って数えてみたら、火にかけられる鍋だけで1500あった。

使い込んだ鍋は「表情」がいい

佐伯が好む鍋は、デザインのいいものではない。素朴なのに使い勝手がよく、料理をおいしく仕上げる情熱のこもったものである。そうした鍋に巡り合いたいばかりに国内はもとより、外国はどこに行っても、まず調理道具屋で鍋を探す。外貨の割り当ての少ない時代にはユースホステルに泊まり、浮いたお金で鍋を求め、お土産はたったそれだけかと、税関職員の目を丸くさせたこともあった。

大阪の万博が終わったとき、フランス館で使っていた鍋をデパートで売るという知らせを聞きつけ、朝6時の新幹線に乗って駆けつけた。わざわざ使い古しを買いに行ったのは、ほどよく使い込んだもののほうが生活感があり、“表情”が出るからである。この鍋はスタジオのキッチンで使われ、一流シェフたちもうらやむものだった。

集めた小道具は地下室に入れていたが、収まりきれず、道を挟んだお隣りと裏のお宅、それぞれ2フロアで合計75㎡平米ある家も借りた。それでもどんどん増え3カ所合わせると10万点にも上った。

国内外の展示会や骨董品店に通って食器を集める

小道具は国別の食器、鍋、入手困難なアンティークからテーブルウェア、カトラリー、雰囲気作りの小道具やバック、調理器具、地方や時代の違う机や碕子などの家具から農家の民具までありとあらゆるものを揃えた。量や種類はもちろんだが、質もよい。「え、こんなものまでが」と驚くものまで揃っている。

そのために国内の展示会や骨董品店に足しげく通い、北欧やフランスなど海外にも足をのばした。デパートで開催されるフランス展やイギリス展には開店前に並び、他人より先に買う。買うというより、買い占める。

佐伯はコレクションを通じて、料理の文化にこだわっていた。

「シーンを作る際に重要なのはセオリー。郷土料理には同地方の酒を合わせる、食器に合わせて選んだ箸を作法に従って置く、季節に合わせて器を選ぶ。こうした約束事は、和洋を問わず、料理を食べやすいように、そしておいしく食べられるようにという心配りから生まれた1つの文化です。昔は撮影する際も、そうした約束事をしっかり守っていました。1枚の写真に写っているすべてのものに、きちんと意味があったのです」

39人の弟子を育てた「佐伯学校」

佐伯は1964 (昭和39)年から弟子をとり始め、生涯39人のカメラマンを育てた。自身のもとで数年間修業をした彼らを卒業生と呼び、そのほとんどが現在、一流の料理カメラマンとして雑誌やコマーシャルなどで活躍をしている。優秀なカメラマンを養成するため、世間では「佐伯学校」とも呼ばれていた。

卒業生たちは独立したあとも、何かと佐伯のもとに顔を出す。お正月には佐伯邸に集まって新年を祝うのは恒例行事だった。2012(平成24)年に佐伯が亡くなったときも、驚きと悲しみにくれる卒業生たちが葬儀一切を仕切った。

弟子は少ないときで1人、多いときには5人。常に3~4人はいた。数年修業をして次々に卒業していき、新しい人が入る。

写真技術の高さから佐伯のもとには雑誌やコマーシャルなどの仕事が次々に入り、仕事は夜遅くまで忙しい。ピークのころは朝・昼・晩・夜中と日に4回も撮影が入ることがあった。根っからの仕事好きの佐伯はそのスケジュールを喜々としてこなし、それどころか土日にも仕事を入れるのを善しとしていた。まさに寝る間もない忙しさ。みんなで同じ料理を食べて、共同生活をしていたようなものだった。

そのころ弟子をしていた人は「先生は休みたいとかリラックスしたいなんて言わない。いったいいつ休んでいるか不思議だった」と言う。

写真は見て覚えろ

スタジオではみんなが交代で昼ご飯を作っていた。写真を撮る以上、自分自身が料理を作って基本的なこと知らなければならない。自分で作っていれば、きちんと火を通したものがどんな色になるかがわかる。彩りばかりにこだわった料理が生焼けでとても食べられたものではないことも学べるからだ。

佐伯は彼らに何をどう教えたのか。

「ぼくは、弟子を育てようなんていささかも思っていません。依頼された写真には最大限の努力をして少しでもいい結果を出す。そのために弟子と力を合わせて一生懸命やっているだけなんです。仕事は教えていません。そばで見ていることが教えのようなものでしたね」と、師匠風を吹かせるのが苦手な佐伯は気負うところがまったくなかった。

厳しい現場を共有する中で、彼らは佐伯のパワフルで情熱的な仕事を「盗み」、その大きな人間性に触れ続けた。

料理写真には気働きが大切

料理写真を撮るコツは「気働き」であることを佐伯は身をもって示した。気働きがあれば料理人の気持ちをくみ取ることができる。料理人がどのような気持ちで料理を作っているかがわかれば、料理のいちばんおいしい瞬間をカメラに食べさせられる。

卒業生の1人は、次に何をするかを予測する訓練がのちに役立ったと言う。「先生は僕らに1つ先の行動を読ませるのです。缶を持ったら、すぐに缶切りを差し出す。『あれを持ってこい』と言われたら『あれ』が何であるかがわからないといけない。お互いが同じ気持ちにならないと、『あれ』はわからないんです」

ある卒業生は「弟子の身分なのにぼくらをいつも『さん』づけで呼んでくれたんです。給料もよかったし、ボーナスもちゃんとくれました。ただ、あまりに忙しくてお金を使うヒマはありませんでしたが」と笑う。

弟子が卒業してフリーになるとき、佐伯はその人のことに即して書いた推薦状とともに送り出した。忙しいなか下書きに1週間費やした推薦状は上質紙に書かれ、編集者や業界関係者に送られた。そこにはいつも愛情がにじみ出る文章がつづられていた。

理想の料理写真に近づくため機材に凝る

機材についてのこだわりも半端ではなかった。佐伯はいろいろな仕掛けを手作りしたり、新しい機材を購入したりして、理想の料理写真に近づくためにあらゆることを試みた。

料理を撮り始めた頃の光源はタングステンと呼ばれる電球である。ベニヤ板を放物線状に曲げてその内側にしわを寄せたアルミホイルを貼り、中心にこの電球を置いてやわらかい平行光線を作り上げた。そのライトとスポットライトを組み合わせると、料理にハイライトが入り、質感がぐんとアップした。この「装置」は地方の撮影にも持参した。

料理全てにピントを合わせるために必要なのがカメラのあおりと、当時は何十秒もの露光だった。露光中は空気さえも揺らしてはいけないと、撮影現場の人間は一斉に息を止める。そこまでして撮った写真は、画面の端から端まできっちりとピントが合い、他のカメラマンとは格段の差があった。

その後フランスからバルカーという大型ストロボが輸入された。高額なため、大企業や貸しスタジオしか保有しなかったが、佐伯はすぐに数台を購入した。

大型ストロボによる撮影で料理写真は画期的な進歩を遂げた。それまでは湯気や料理にソースをかけるシーンなどは露光時間がかかってブレていたが、ストロボなら瞬時に撮れる。しかし、ストロボは紫外線が多く、料理に青みがかかるのが欠点だった。

大きなストロボを特注

最初はフィルターで補っていた佐伯だが、新しいストロボのチューブを1000回以上発光するとちょうどよい色温度になることを探し当てた。そこで新品にタイマーをつけて一晩中発光させて自分好みのストロボの色を作った。

満足な絞りを得るため、当時は1200W/Sまたは2400W/Sのストロボが主体だったが、4800W/Sを皮切りに国内メーカーと一緒に開発し、自慢の9600W/Sもの大きなストロボを製作してもらった。

どんな位置からもレンズのシャッタースピードや絞りを遠隔操作できる装置、エクスポラックスシステムも輸入後すぐに購入。これらの機材やカメラは、出張が多かった時代は大阪にも同じものを置いていた。

機材と共にフィルムの種類や個々のエマルジョン(乳剤)にもこだわり、エマルジョンが変わるたびに何十枚もテスト撮影をして好みのフィルムを決めていった。そのときの使用したフィルターやストロボの色温度などのデータはいつもスタジオの壁に張ってあった。

綿密に構図を決めて本番へ

当時の料理撮影の様子はこうだ。まずは大体の感じをつかむため、本番と同じ盛り付けをしたダミーの料理で構図を決める。食器はもちろん、バックに使う板や布、塩・こしょう挽きやワイングラスなどはスタジオの地下にある小道具たちの中から選び出された。

ライティングは料理の質感を出すために逆光を主体にし、光の流れを壊さないような補助光を当てて、まるで一灯でライティングしたように仕上げる。補助光を少なくするために、使ったのが銀紙や白やグレーのケント紙を張った大小のレフ板。鏡も平面や凹面を使い分けて使った。ストロボの光源が写り込みやすい塗器、金属製の食器などにはトレーシングペーパー、ベンベルグという薄い布、ミクロトレースなどが活躍した。

セッティング時の指示は、皿などを動かす場合、時計の針(あるいは時計の針と反対)の方向に何分、微速前進といった具合に、間違いをなくすように工夫されていて、佐伯の指示を助手がもう一度復唱しながら動かす。「時計の針の方向に○分動かします!」と。

大体の構図が決まるとポラロイド写真を撮って料理の構成と露出を確認する。納得がいかなければ皿の位置をずらしたり、レンズや露出を変えたりして繰り返し手直しを行う。とくに露出の間題は露出倍数の計算で時間を費やすくらいならポラで修正・確認するほうを選んだ。ライティングや細部にわたるチェックを兼ねて、カラーのポラロイド写真を撮ってもう一度検討する。

いよいよ本番。改めて本番用の料理が作られ、食べごろのタイミングを失わないように、一気呵成に盛られ、カメラの前に置かれる。撮影も一気呵成。料理が出てからは佐伯も助手たちの動きも緊張がみなぎる。本番では露光のミスをなくすためもありフィルムは惜しみなく使う。湯気など形の違うものは1カットに数十枚もシャッターを切ることもあった。

撮影が終わると1カット毎にピントグラスをもう一度確認して「はい! 異常ありません!」と佐伯自らが宣言して、このカットは終わりになる。

撮影中は編集者や弟子たちとも冗談を飛ばすが仕事は早い。何しろ一日に4×5フィルムを200枚以上も撮ることもあったほどだ。

本物に肉薄した「おいしさ」

写真で「本当の姿を伝えたい」という強い思いのあった佐伯は、実際に食べられる状態のものを撮ることにこだわった。きれいな色を出すために火が十分に通っていないものや、本来の調理に使わないものを混ぜたり、塗ったりしたものでは本当の姿は伝わらない。

しかし、作り立てのあつあつ感を伝えるには限界があり、再現するための工夫が必要だった。佐伯は試行錯誤の末、さまざまな方法を料理写真の世界に持ち込んだ。

例えばグラタン。いちばんいい部分に焦げ目がほしいときは、画面に入らないところの焦げ目をカッターナイフで薄くそいで、移した。「物事の事実と真実は必ずしもイコールじゃない。剥(は)がして移したのは事実じゃないけれど、真実なんだね」と言っていたが、なによりも写真を見た人が画面でいちばんいい状態が見られることを考えていた。

温かい料理を撮っていると、はじめは湯気が出ているが、そのうち出なくなる。料理は何度も温められない、そこで湯気を出すための方法を編み出した。

ドライアイスを適度に砕き、茶こしなどに入れフーッと息を吹きかけて湯気の代わりをさせる。実はドライアイスで出した湯気は重くて下へ落ちる、そこで器の縁にドライアイスの煙を当て、あたかも料理から本当の湯気が出ているような温かみのある写真を撮った。

炭火と料理を撮影するときは、まずライティングをして、ストロボで料理を写す。次にモデリングランプを消し真っ暗にしてから、火だけを長時間露光し二重に露光する。そうして火の明るさをいろいろコントロールすると、真っ赤な炭火やほのかに赤い炭火が撮影できる。ただ炭火の上の料理が動けば失敗するので、何枚も撮影することがあった。

本物の質を引き出すために手を加えた写真ではある。しかし、佐伯は「本物に肉薄するだけの志を持って」ここまでの方法に到達した。そしてその数々のワザを惜しげもなく、誰にでも教えた。

生涯ただ一度の写真展

これまで写真の展覧会を開いたことがない佐伯だが、唯一の例外が2005年に富士フォトサロン東京、大阪、名古屋で開かれた「男の料理」の写真展である。これは小学館の『週刊ポスト』の連載「男の料理」に11年にわたって掲載された500点ほどの写真から50点を厳選したものだった。

「男の料理」のコンセプトは男が男のロマンを込めて自分の料理を作るのというもの。編集者も男性で、料理は各界の著名な男性。ぜいたくな食材をふんだんに使い、ダイナミックに作った料理がオールカラーで紹介されていた。1978年の連載開始とともに評判を呼び、今でこそ当たり前になった男の料理の火付け役となった。連載をまとめた単行本も12冊のムック形式でシリーズ出版され、よく売れた。

ほとんどの料理は佐伯スタジオで撮影し、佐伯がセッティングした。

豪快な「男の料理」を演出

凝り性の佐伯はこの仕事で真骨頂を発揮し、その写真と構成の素晴らしさは、もはや誰も到達できないレベルだと評された。料理はもちろんだが、その何倍もバックの構成に力を入れたのだ。

どんと生の材料をバック置くのは当たり前。当時の担当者は「まつたけご飯の後ろに置くまつたけだけで300万円分を取り寄せたことがあります。たくさん取り寄せた中から、きれいなものだけを使うんです。越前がにを撮ったときは解禁日に船を雇って漁に出てもらい、30ぱいほど取り寄せました。船のチャーター代を入れて400万円かかりました」と、当時の編集者が、出版社は佐伯の撮影には惜しみなく金をかけたことを明かす。昨今の出版不況では到底考えられないほど豪勢な撮影だった。

そして、バックに置いた小道具はすべて佐伯のコレクションから選んだ。プロシャ軍が使っていた鉄かぶとや紅衛兵の旗といった、「なぜ、こんなものまで!?」と誰もが驚く本物が、さりげなく料理の後ろに置かれた。野鳥の料理のときは佐伯が趣味にしている散弾銃や小物も登場した。豪快でリアルな雰囲気を醸し出す佐伯ワールドの迫力には誰もが釘付けになった。このHPのPortfolioに掲載している「男の料理」の世界である。

おいしい瞬間をカメラに食べさせる

「野外の撮影は『もう撮影料なんかくれなくたっていいから俺に行かせろ』というくらい好き。やっぱり大自然の中で写真を撮るというのは、写真の原点だと思います。朝の光が当たったときは美しい。夕方の光はまたそれなりの情感がある。大自然のさまざまな動きの中で写真を写すことは、カメラマンにとって最高の喜びでしょうね」と熱く語っていたほど、佐伯は自然の中での撮影には格別の思いを持っていた。

スタジオで撮っていたほうがラクには違いないし、それはそれでサービス精神を発揮して、いろいろなことを仕掛けるのだろうが、野外の撮影のおもしろさにはかなわない。そのために、依頼があればランドクルーザーを駆使して、どこにでも出かけた。しかもガソリン代などは全部自前でやってのけた。

自然はさまざまに動くため、思わぬことも起きる。同行していた弟子たちは、「先生が撮り始めたときは料理の上に木洩れ日(こもれび)が入っていたけれど、太陽はどんどん動いてしまう。ぼくが木に登って、枝を引っ張りながら木洩れ日を移動させました」

「砂浜で撮影したときは、写しているうちに潮が引いて砂が乾いてしまった。みんなで海水をすくってきて砂にかけました」

「料理に西日を当てるときは、西日を追ってみんなでテーブルを少しずつ動かしながら撮影しました」と、口々に思い出を語る。しかし、この西日の写真が表現したセピア色のにじんだ世界は独特で、読者から「これはどの国で撮影したものですか」との問い合わせがあったほどだった。

佐伯が常に目指していたのは「おいしい瞬間をカメラに食べさせる」ことだ。そのためにいちばんこだわったのが「一気呵成」(いっきかせい)である。いい素材を、いい料理人が、一気にこしらえあげて盛りつけたそのときを、エイヤッとばかり撮影する。

料理をきれいに見せるために生に近い状態で撮ったり、小細工をしたりして誤魔化すのではない。おいしいから美しいという次元の高い美しさが理解される時代になり、佐伯の写真のリアリティーが威力を発揮した。

技術と感性で「おいしい時間」を切り取る

料理のいちばんおいしい時間はそう長くは続かない。その瞬間、全神経を張りつめて、この光だ、この色つやだという時を狙う。これは日頃、タイミングの訓練を積んでいないと出来ない。チャーハンを例にとれば、仕上がって皿にきれいに盛られている状態よりも、皿に押さえつけたオタマがはずれ、米粒がパラパラっと割れかけた状態のほうが、「はい、出来上ました!」という勢いが醸し出される。自然のうちに瞬間的に料理を写しとめることがポイントだ。

とろけたチーズがすーと伸びて、いまにも切れそうなあの感じ。ご飯にあつあつのお茶がそそがれ、具材がほろりと崩れるあの瞬間。揚げたてのコロッケがじゅわーと音を立てる様子。今やテレビや雑誌でお馴染みになったおいしさの表現は、佐伯の試行錯誤から生まれた。味もにおいも伝えられない写真だからこそ、絶妙な一瞬を切り取る。それは報道写真にも通じる醍醐味だった。料理人が一気呵成に盛り付けた料理の勢いが失われないうちに撮ることにこだわったのは、辻留さんとの撮影で得た極意でもある。

「大事なのは料理に対して『おいしそうだな、食べたいな』と思う気持ちであり、どういうところがおいしいかを見極め、見出そうという努力です。料理を撮るなら、まず料理が好きなこと。食べることも、作ることも、素材や食器を見ることも好きじゃないといけません。まあ、食についての愛情がいちばん。見た目にパーッときれいで彩りがよくてもそれがうまそうだとは言えない。彩りがきれいですねーをつき破って、さらに奥にある色を究めていかないとね」

できたてのおいしい瞬間は、みんなカメラが食べているのだ。

夫婦で住む終の棲家へ

日本で初めてのキッチンスタジオ、おびただしい数の食器や料理器具、用途別の車、弟子たち。それらはもう現存しない。撮影のざわめきも笑い声も、おいしいにおいも遠い過去になってしまった。

スタジオを使う機会がめっきり減ったところに、2011年老朽化した自宅を建て直したからだ。敷地の半分を売却して、夫婦で住む終の棲家を建てた。

それについて佐伯はこう語っている。

「全館冷暖房の元の住まいは維持費がかかりすぎました。私も年も取ったし、広い家は効率性も悪い。そこで小さくして、バリアフリーにしようと考えたわけです。年と共に不要なものを捨てるのも必要。『方丈記』みたいに一丈四方の部屋で質素に暮らしてみたい。そんな気持ちもあったんだと思います」

夫婦の住まいはキッチンとサロンと書斎が1つのフロアにあり、快適に暮らせる工夫があちこちに施されていた。しかし、ここで暮らしたのはわずか8カ月だった。

2012(平成24)年1月18日の深夜、撮影を終えた佐伯は突然の入院となった。20日の午後、現像所から上がってきたポジフィルムのチェックをし、クライアントに渡すまでの手配をすると、その日に息を引き取った。享年84歳。生涯現役を貫いたカメラマン人生だった。

 

※佐伯義勝唯一の写真集『佐伯義勝 料理写真の世界』には珠玉の料理写真とともに佐伯の人生が数々のエピソードともにさらに詳しく紹介されています。

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